あれはもう “ナントカ風” を脱して “ナントカ風の風” 、モノの型やコンセプトは三次元にも四次元にもなっていて、使う人間のセンスが真に問われる世の中でもあるのだと。
僕はこういう仕事をしているので、新しいモノの見方については、自身それはアヴァンギャルドであるべきだと思っていますし、その為には他の否定よりまずは准じて見る姿勢だと思っていますが、それでも根本的な意味や精神を無視するのはあまり好きではありません。
それと同時に、そんな自分を肯定できるだけの知識や経験を習得することへの欲求がもっぱら強く、毎朝息子君と教育テレビを見て人生を復習して、毎日の生活の中での予習を繰り返す日々です。その螺旋が、例えばやった事のない事をやろうと言う力を創って行くのかもしれません。
新しいモノの見方や表現は、これすなわち “芸術は爆発だ!” です。叫んどけばいいのです。
ちょっと無理矢理ですが、その “叫び” がより多くの共感を獲得する事が、こんなにも難しいかと感じる事もありますが、叫んだ以上は伝わり、良くも悪くも返ってくるので、判断は自ずとくだされる。大事な事は自信を持って失敗する事ですかね。
そんな中では、成長を感じず自信無く、悲観的で否定的な人間を見るほど、さみしい事はありません。種類や土俵の違う相手に魅力を感じきれなかったり否定的なのは、なにも生まれない、結果的にはそういう事になります。もちろん、そうすべきと感じるならの話ですが。
人間は、真理の探求心と言うモノを持っています、いや持っているはずです。少なくとも小学4年生くらいまではみんな持ってます。
人間てのは、どうして、どして、なんで、なのってね、知識や経験がプラスやマイナスの効果をもたらし成長していくらしい。その真理の探究心をなくす事と引きかえに人間は成長を止めるモンだと、その時点で幸せならそれでいいのですが。
新しいモノの見方や表現は、これすなわち “芸術は爆発だ!” です。叫んどけばいいのです。
ちょっと無理矢理ですが、その “叫び” がより多くの共感を獲得する事が、こんなにも難しいかと感じる事もありますが、叫んだ以上は伝わり、良くも悪くも返ってくるので、判断は自ずとくだされる。大事な事は自信を持って失敗する事ですかね。
そんな中では、成長を感じず自信無く、悲観的で否定的な人間を見るほど、さみしい事はありません。種類や土俵の違う相手に魅力を感じきれなかったり否定的なのは、なにも生まれない、結果的にはそういう事になります。もちろん、そうすべきと感じるならの話ですが。
人間は、真理の探求心と言うモノを持っています、いや持っているはずです。少なくとも小学4年生くらいまではみんな持ってます。
人間てのは、どうして、どして、なんで、なのってね、知識や経験がプラスやマイナスの効果をもたらし成長していくらしい。その真理の探究心をなくす事と引きかえに人間は成長を止めるモンだと、その時点で幸せならそれでいいのですが。
さて何が言いたいのか?毎度の事ながら、長くなればなるほど自分を見失うもんです。
“為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり”
これ教育テレビで毎朝のごとく唱えられておりますが、その通りです。
自分にも言い聞かせたい言葉ですが、成らぬ事に頭を悩ませたり、その事に対する見解のズレを感じる人がおります。
人の事をとやかく言うつもりはありませんが、先に言ったように身近でそれを見るほどさみしい事はありません。誤解を恐れずに言えばさみしいなんてオブラートに包みすぎて、ホントは迷惑です。ネガティブも使いようです。
大抵その相手は「お前はいいよな」とか、そう言う目線で他人を見ていますから話になりません。
勘違いされては困ります。例えば僕は、真理の探究をやめていません。学業もおろそかで物覚えも悪いアホですが、ここに書いているような自分がある為の所作、アバンギャルドである為の努力を日々やっている、もしくはそういう意識を持っている、それはそんなに楽な事ではないし、やめてしまったら死んでしまう、それくらいの状態に身を置いているのですから。そう簡単に「いいよな」なんて言われたら、「いいだろ!」って自慢したくなります。
そこで重要なのは、「事」に興味が無くても「人」に興味を持てってことです。
モノを見た目で判断していると、三次元にも四次元にもなろうとしている価値などわかるはずがありません。それ以前に人間には、言葉や目、表情、相手を知るには簡単すぎるほどの要素が揃っていますし、お互いが他者と対峙する能力を持って接するワケですから、思ってもない答えを見つける事ができます。
その上、見た目以上の奥深さこそが人間の真髄です、だから興味の対象は先ず人に向けるべきです。そこにきっかけを見ずにどこで自らの殻を破るのでしょうか?
あーややこしや。
長くなりましたのでこの辺で。
考え方の一部をこうやって表に出すのは、自分という者を理解いただき、クライアントに共感をいただきたいってのが一番なのかもしれませんが、いつも言ってるようにこれも自分への暗示。
だけど、夢を無くしたり、見間違えたりした連中への暴言でもあります、よけいなことですが。
諸先輩方は見守ってください。書いてる事が当たり前すぎるので、理解のある方は、ご意見ご指導もお願いします。
気がついた方は、僕とやり直しますか?
これ教育テレビで毎朝のごとく唱えられておりますが、その通りです。
自分にも言い聞かせたい言葉ですが、成らぬ事に頭を悩ませたり、その事に対する見解のズレを感じる人がおります。
人の事をとやかく言うつもりはありませんが、先に言ったように身近でそれを見るほどさみしい事はありません。誤解を恐れずに言えばさみしいなんてオブラートに包みすぎて、ホントは迷惑です。ネガティブも使いようです。
大抵その相手は「お前はいいよな」とか、そう言う目線で他人を見ていますから話になりません。
勘違いされては困ります。例えば僕は、真理の探究をやめていません。学業もおろそかで物覚えも悪いアホですが、ここに書いているような自分がある為の所作、アバンギャルドである為の努力を日々やっている、もしくはそういう意識を持っている、それはそんなに楽な事ではないし、やめてしまったら死んでしまう、それくらいの状態に身を置いているのですから。そう簡単に「いいよな」なんて言われたら、「いいだろ!」って自慢したくなります。
そこで重要なのは、「事」に興味が無くても「人」に興味を持てってことです。
モノを見た目で判断していると、三次元にも四次元にもなろうとしている価値などわかるはずがありません。それ以前に人間には、言葉や目、表情、相手を知るには簡単すぎるほどの要素が揃っていますし、お互いが他者と対峙する能力を持って接するワケですから、思ってもない答えを見つける事ができます。
その上、見た目以上の奥深さこそが人間の真髄です、だから興味の対象は先ず人に向けるべきです。そこにきっかけを見ずにどこで自らの殻を破るのでしょうか?
あーややこしや。
長くなりましたのでこの辺で。
考え方の一部をこうやって表に出すのは、自分という者を理解いただき、クライアントに共感をいただきたいってのが一番なのかもしれませんが、いつも言ってるようにこれも自分への暗示。
だけど、夢を無くしたり、見間違えたりした連中への暴言でもあります、よけいなことですが。
諸先輩方は見守ってください。書いてる事が当たり前すぎるので、理解のある方は、ご意見ご指導もお願いします。
気がついた方は、僕とやり直しますか?