また性懲りも無くよけいな言い草をしていましたが、毎日仕事に徹しています。
少し前、ゲラを出してそのままになってた、とある会社のキャラクター制作の話をしていた。カット割りやら、キャラクター1体の使用方法と仕様形態についてやらと、その制作時間と金額なども含めて話していたわけだけど、これを見てほしい。
恐ろしいことに描いたものがその瞬間にカタチになっているようなものだ。
この状況下においてはもう、1体のキャラクターやロゴなどがどういう過程で出来ているのかなどに感心の無い、言わば素人の方などにとっては、キャラクター制作など一瞬で出来るじゃないかと思いがちだろう。まさか、そこにはコンセプトに基づくアイデアの想像者、すなわちデザイナーの存在があることを忘れないでほしい。
それにしてもビジネス優先の現場は別として、デジタルユースの環境で無くなったものがある。それは「描き込む」と言う部分だ。ベクター化されたデータにデジタルエフェクトをかけたり、フィルタを通して完成されたとして、それは「描き込まれた」とは言えない気が
する。アートやグラフィックの制作における「手で描く」と言う部分で、一体全体どこからどこまでが「手で描く」なのかよくわからなくなっていた自分に、この端折ったハイテクはヒントをくれた感じだ。
ひとつ上げれば、作品を見た人が感動するなら、制作方法はどうでもいいと言うこと、何かをつくることは、結果的に人に感動を与えることが最大の目的だと思う。ならば、制作方法は自己満足で評価の対象外なのか、どうやっているのかわからないのも芸術だが、モノを判断する感性にそれが生まれた環境と背景すら関係ないことになると、なんとも判断基準にかけるような気がする。
もしもこの先、ドラえもんの道具ばりに絵に描いたショートケーキが本物になるペンが登場した時、そのケーキがホントに美味いかどうかどうやって判断するのか?自分の答えは“そんなもん食うかボケ!”ってとこだ。
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